ぶきっちょさんの共働き入門

2021年夏より家族でアメリカ居住。異国暮らしとキャリア断絶について考える日々

【育児】育児書を読むということ②

本に書いてあること、というと、それだけであたまでっかちなことのように捉えられてしまうのかもしれない。たしかにいつだって現場現物。なにより実体験にまさるものなしであるというのは本当だろう。

 

読書のやり方は人それぞれだ。

私は小説以外のジャンルの本を読むときには、多くの本をざっと眺めるように、浴びるように読むことが多い。そうして傾向が分かればそれでまずはよし、とすることもある。一筆者の本を隅から隅まで、メモをしたりしながら読むのではなく、たくさんの筆者による本をささっと読むのだ。それこそその人の話をカフェで聞いているような気分で。

育児本も同じようにささっと色んな種類の本を手に取った。図書館の机に気になる本を積んでは戻し、積んでは戻していった。男の子はこう育てる、だとか思いやりのある子はこうやって育つ、だとか。離乳食や子供の病気の本もそっと耳を傾けるように読んだ。だから「この人のこの本ではこう言っていたのに!」などということは殆ど覚えていない。もしかしたらきちんと勉強をするつもりで読んでいたら、出産後まもなくの怒涛の数日を手助けしてくれる情報も載っていたのかもしれないけれど。

 

ただ色んな本を手に取って思ったことは、「子供を一人の人間として尊重する」ことが大切なのだなということだ。もちろん私が何となくタイトルに惹かれて手に取った本たちなので、偏りがあるかもしれないけれど、ページの向こうの筆者たちから学んだ一番大切なことは総じるとその一点であったと思う。

 

当たり前のことを言っているようで、これが意外と難しい。

相手はものいわぬ怪獣であるのだから。

 

まだものいわぬ(バスとトラックだけは言える)怪獣である彼と私では、今でも全くもって利害が一致しないので、困り果てることだって、大声で怒鳴りたくなることだって、いい加減にしてとため息をつきたくなることだってある。頑張ってつくった食事を食べてくれない(そのくせレトルトの離乳食は食べる)ときも、お風呂に入るために脱ぎ終えた着替えをもう一度着るのだ(そのくせよだれがついている部分が濡れて気持ち悪いと怒る)と泣きわめくときも、唐突にはじまるかくれんぼに対応が間に合わず隠れきれなかった私を不機嫌ににらむ(そのくせ自分は隠れない)ときも、いつもいつだって大人として怪獣と真摯に向き合う必要があるというのは、相当の忍耐を求められるのだ。相手が心の底から愛しいかわいいと思う相手だとしても。

 

難しいことを、当たり前にやっているおかあさんたちは本当にすごい。

私はぶきっちょなので、当然ですという風には全然できない。

今日もまた、口の中に入れたごはんつぶをべええっと吐き出されてため息をついてしまったし。

 

本に書いてあることのように、現実はうまくいかない。

ただだからこそ、書いてある情報を素直に受け取れた時には、直接「ほらこうやればいいのよ、こうやんなさい」と言われるよりずっとソフトに心の中に染み込んで、後々まで私を助けてくれる気がするのだ、本で読んだ内容というのは。不特定多数へ向けられたメッセージの特性のような気もする。特に自分がちゃんと頑張りたい、と思っている事柄に関することだったりすると、なおさら。

 

できないことばかりだ。

もっと上手にやりたい、いい母親でありたいと思うことばかりだ。

それでも怪獣、もといかわいい息子との毎日は続いていくので、あのとき読んだ育児書たちに教えてもらったことを思い出しながら、今日も眠っている息子が蹴飛ばした布団をかけなおすのである。