「もう少し頑張れ」と言われた日の晩は、一睡もできなかった。
不思議と眠気も襲ってこなかった。ただただ悲しかった。情けないような恥ずかしいような、のこのこと産後ケアに来たことへの後悔ばかりだった。だれにも理解されないに違いないと思った。薄暗い施設の部屋で、私は息子と二人きりだった。世界に二人きりで取り残されたような気がした。そしてそれがずっと続くような気がした。
一番の理解者である主人は遠く離れた地で仕事をしているだろう。こんな夜更けに電話なんてできない。きっと心配するだろう。優しい言葉をかけて、私の代わりにその施設に電話で憤ってくれるかもしれない。
だから一層、電話なんてできなかった。
部屋のドアの外側には「起こさないでください」という札を張っておいた。もうあのスタッフさんに会いたいとは思えなかった。
しかし時折、その札を張っておいたにも関わらず「やっぱり預かろうか?」と顔をのぞかせるそのスタッフさんに、苛立ちばかりが募った。「あんな言い方されると少し気後れしちゃいますよ」とでも言って、改めてお願いすればよかったのかもしれない。あのスタッフさんも、今思い返せば「まずいことを言った」と顔に書いてあったように思う。そこで突っぱねるのは大人げなかったとも。
しかし今の私は当時の私に声をかけることができたとして「まあまあ多めに見てあげようよ」とはとても言えないのだった。そのくらい思い詰めていた。
翌朝、一睡もしていない私のもとを訪れたのは、初日に私を号泣させたあの肝っ玉かあさんだった。担当外にも関わらず、様子をきいて顔をみせに来てくれたらしい。
「申し訳ないことをしたね。
せっかく来てくれたのに、頑張らせてしまった。
あの人も、悪い人じゃないんだけどねえ・・」
そうだろう。根っからの悪人だったら、自分の言動を気にしてちょくちょく部屋を訪れたりはしないだろう。悪い人じゃないのは分かるのだ。
でも、声をかけるときに少しでいいから考えてほしかった。時と場所と、そして相手のことを。自分の言葉が、相手にどう思われるかということを。何気ない一刺しが、相手によっては致命傷になりうるのだという事実を、想像してほしかった。私にとっては致命傷だった。
息子が1歳半にもうすぐなろうというのに、この時のことは鮮明に覚えているくらいに。
結局、この後の滞在中も私は一度も息子を預けられないまま、決してゆっくりはできないまま、産後ケアを後にしたのだった。
ただ、良かったこともたくさんある。ほぼ家にいるときと同じでゆっくりとはいかなかったけれど、さながら育児ブートキャンプばりに、育児についてスタッフさんが入れ代わり立ち代わり教えに来てくれたのだ。母の育児論が頼りなかった私には、有難いことだった。
沐浴の効率的な行い方(顔だけは濡れたガーゼで先に拭きとっておくとよいとか)、新生児の反射について(息子をつかってモロー反射をやって見せられた時はプロといえど心臓が止まるかと思った。座らせた状態からパッと首を話して後ろに倒すのだ。全く恐ろしい)、授乳の様々な姿勢(添い乳というものを初めて実践した)など。
思っていた産後ケアとはだいぶ違ったけれど、実りは多い滞在だった。主人が返ってきたときに、息子と2人、きちんと生きている状態で出迎えられた。
けれどこの体験から私は、ママ友(いまは少しできました)と産後ケアの話題になったときに「すっごくいいよ!おすすめ!」とはどうしても言えないのだ。そこに助けを求めるおかあさんたちに必要なのは実益満載の育児ブートキャンプではなく、実益がなくても少しほっとできる労りの言葉だと思うから。