ツイッターでは、子供ができたら大変だなんてわかっていたことだろう!という論戦が繰り広げられているようだ。
確かに、想定できた大変さもある。「退院したら寝られないから、今のうちに寝ておきな」という産院の看護師さんの言葉は労りでもなんでもなく、文字通りの意味であった、とか。「産後のからだ甘くみんな」という先輩ママの言葉は、眠れなくて辛いという以前に、下半身の物理的な痛みがなかなか引かないから覚悟しとけという意味だった、とか。
けれど想定できなかったこともまたある。自分がこんなにも親ばかになるということだ。息子が生まれるまでは「赤ちゃんかわいい!」なんてあまり思わなかったし、自分に母性本能が存在しているのか不安になったほどだ。想定していたよりもずっと、体力的にしんどかったけれど、息子が可愛すぎたためになんとか、かろうじて生き延びられた。もう結果論だ。結果的に私と息子は生き残った。そして今は保育園さまに頭が上がらない。
息子が可愛いと思えなかった可能性もあるわけで、そうしたら本当に地獄だったろうと思う。可愛く感じられたことは私の努力でもなんでもなく、ただの幸運だったと思っている。息子が世界一可愛く生まれてきたのは偶然だからだ(親ばかですね、ばか親にならないよう毎日必死です)。
会社員を10年くらいやったけれど、これほど向き不向きのある職業を、私はまだ体験したことがない。
息子を保育園に預けはじめて「ああなんだろうこの懐かしさは・・」と思ったことのひとつに、トイレがある(お食事中の方すみません)。
息子とずっと一緒に過ごしていたときは、幼児を監督している多くの大人がそうであるように、日中落ち着いてトイレに入ることができなかった。トイレに入って扉をしめたら最後、息子からのさまざまなアクションが私が出てくるまで続く。
「あ"あぁぁぁぁーーーー!」と四つん這いで泣き続ける(声がくぐもっているので廊下に突っ伏しているのがわかる)か、ご機嫌でトントントンと扉にリズムを刻んでいるかと思えば、私のお返しトントンのリズムが気に入らず「あ"あぁぁぁぁーーーー!」と泣き始めるか、ドアノブに伸び上がってつかまり開かないと気が付いて「あ"あぁぁぁぁーーーー!」と泣き始めるか、だいたいそんな感じだ。
もうこちらは気が咎めて用を足すどころではない。早く外に出ることが最優先になる。ついでに言うと扉の前に突っ伏している息子を挟みやしないかとビクビクしながら扉をあけるので、扉を閉めて息子を抱き上げるまでずっと気が咎めている。
仕事をはじめて、トイレに入っているときに扉の向こうで叫び声が聞こえないことに、心底安堵した。よかった、いま息子はきっと砂遊びの時間だ。バケツに砂を入れてひっくり返すのがお気に入りなのだ。トイレの前で突っ伏しているよりずっと有意義な時間を過ごしているに違いない。
トイレに行くたびに、保育士さんへの感謝の念を送らずにはいられない。