「大丈夫、息子は毎日、ちゃんと生きている」
きっと母は、電話口から「当たり前でしょうが」としか反応できない言葉しか聞こえてこないことに困惑していたのだと思う。もっと幸せいっぱいの、親ばかが炸裂したような話が聞きたかったのだと思う。(1歳半になった今は親ばかが炸裂していますが)
そして産後3週間頃に決まった主人の出張に合わせて、産後ケアを利用する旨を告げた。滞在先の状況によっては電話はしづらいだろうという旨も。
一人きりで面倒をみていて、有事(私が貧血で倒れて頭を強打して死ぬとか)の際に息子を衰弱死させてしまう訳には行かぬ、と言うと「そう・・」と無言になった後、それきりぱったり連絡を寄越さなくなった。私も日々生きていることに必死だったので、連絡がないことを気にも留めなかった。
そうやって毎日を何とか生き延びていくうちに、腫れていた切開の傷がようやく塞がって痛みがなくなった。同じころに息子が3時間ほどまとめて寝てくれるようになり、食事をとれるようになったのは生後3か月から4か月ほど経過した頃であった。意思に反して電源が落ちるように眠るのではなく、「よし寝よう」と思って眠ることができるようになった。
人並みの生活が戻ってきて、外出も少しずつできるようになった頃、思い出したかのように母が連絡を寄越した。近況を報告し写真を送ると「よかったよかった、可愛い可愛い」と、心底ほっとしたように何度も繰り返していた。「だからやれば出来るって言ったでしょ!」くらいの右ストレートが飛んでくるかと構えていた私は拍子抜けしてしまった。
そして、しみじみと言った。
「育児って、大変なことだったんだね」
これには仰天してしまった。あの母が、育児を「大変」認定する日が来ようとは夢にも思っていなかった。続けて、母は「大変な時に、助けてやれなくてごめんね」とバツが悪そうにつぶやいた。
そこからの母の変わりようには、目を見張るものがあった。
やれ部屋の湿度はどうの、やれあせもの様子はどうの。鼻水が出れば重病を心配し、湿疹が出ればアレルギーを心配して騒いだ。きちんと病院で相談しているし、事前に調べて対応しているから大丈夫と伝えても、初孫が心配でたまらないようであった。「赤ん坊なんか放っておいても育つ!」と言い放った人物とは思えない。
いくつになっても、人は変わるものなのだ。以前の口癖は「そんなの大丈夫よ!」だったが、今では「そんなので大丈夫なの?」である。口喧しいのは変わらないが、息子を気にかけてくれる人がいるのは有難いことだと思っている。
私が初めての子育てに四苦八苦している隣で、祖母となった私の母もまた、孫育てに四苦八苦しているようである。まるで初めて子供を育てているようだ。
息子は祖母に、直接会ったことは殆どない。しかし孫となった彼は、私の母をすっかり「祖母」にしてしまった。しかも、とても過保護な祖母である。
私たち夫婦は、息子を育てているつもりで、育てられていると感じることがよくある。そして彼の祖母となった私の母もまた、孫に「祖母」として育てられているようである。
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