テレビをつけると、どこかの大学がまさに2位から1位に躍り出るところだった。スタート地点からの経過を一切見ていないにも関わらず、選手の苦しそうな表情にウルっときてしまう。
視聴時間わずか5秒ほどのことである。主人に話したら「一昨年まで『何が面白いの?』と言っていた人とは思えないね」と苦笑された。仰るとおりである。私が「なんと素晴らしい番組だろう」と、手のひらを返すように箱根駅伝のファンになったのは昨年のことだ。
年を重ねると涙もろくなるというが、私のこの胸のさざめきは、年齢のせいだけではないと思っている。大学を卒業して、仕事をして、結婚をして、子供を産んで。その過程の悲喜こもごもを経験したというところも大きいが、やはり息子の存在が大きいと思う。息子を産んでからというもの、箱根駅伝のように「誰かが頑張っている姿」などを見るとそれだけで感動してしまうのだ。
この選手にもきっと親御さんがいて、切磋琢磨した仲間たちがいて、尊敬できる先輩がいるのだろう。必死に何かに打ち込んでいる姿はまぶしい。この晴れ舞台をひた走る彼らの表情は、苦しそうだけれども輝いてみえる。
選手たちは真っすぐに「勝つこと」に向かっていくのであろうが、勝っても負けても、その経験を糧にした彼らのこれからの人生が、明るいものであってほしいと願わずにはいられない。
そこについつい、息子の将来の姿を投影してしまうから手に負えない親ばかである。
全く赤の他人でただの視聴者にも関わらず、まあまあ本当によく頑張ったわね。本当に偉い。なんて立派なんでしょう、もう勝っても負けてもすごいことですとも・・などと心の中で親戚のおばさんよろしく呟いてしまう。
息子にもいつか、打ち込めることができればいいと思う。一生懸命何かに取り組んだ経験は、彼の財産になるだろう。
箱根駅伝に出られるほどすごい成果を挙げられなくたっていい。何者にもなってくれなくていい。でも、願わくば彼が青年になったときに「あれ頑張ったな。これ楽しかったな。これからの人生も楽しみだな」くらいに思ってくれると嬉しいと思う。
寝ているとき以外は常に走り回っているような息子である。もしかしたら将来は箱根駅伝の選手にだってなってしまうかもしれない。
もしそうなったら夫婦揃って応援に行かねば。しかし沿道で声を掛けられるのなんて一瞬ではないか?スタート直後に声援を送った後に、ゴール手地点に先回りすべきであろうか?それ以前に、箱根の宿泊施設は応援者も宿泊できるほど潤沢に部屋数があるのだろうか?随分前から予約せねばなるまい。
そこまで考えたところで、息子の昼ごはんを用意していないのに気が付いて慌てて準備を始めた。
いけないいけない、将来の箱根駅伝よりもまずは腹ごしらえである。息子が将来何をするにしたって、まずは体が資本になるに違いないから。