ぶきっちょさんの共働き入門

2021年夏より家族でアメリカ居住。異国暮らしとキャリア断絶について考える日々

【夫婦のかたち】男のひとには、ぼーっとする時間が必要なのよ

「男のひとには、ぼーっとする時間が必要なのよ」

 

息子が鼻水を垂らし始めている。ああ、明日にはおさまるだろうか。今週はずらせない打ち合わせがいくつか入っていたはずだけれど。平日分のご飯のつくりおきもまだ終わっていない。お風呂掃除も残っている。週末中に目を通しておきたい書類も手つかずのままだ。

仕事や家事の歯車が微妙にかみ合わず不穏な音を立て始め、自分のキャパシティをオーバーすると、ふいに思い出す言葉がある。

「男のひとには、ぼーっとする時間が必要なのよ」

 昔、なにかの本で読んだ一節。読んだ当時は漠然と「なんだ、私は男の人だったのか」と思ったのを覚えている。

 

「男のひとには」という限定文句に、「女のひとは仕事も家事もやって当たり前」「忙しくしていて当たり前」「器用にできてあたりまえ」という前提があるような気がして、苦しくなってしまう。そして実際、わたしの周囲の働くママさんたちは、1日中忙しなく動き回っているようだ。年休を「こどもの発熱」や「PTA活動」ではなく、「自分のため」に使うことすら、何年もできないまま。

 

息子が生まれて、ぼーっと物思いにふける時間はとても少なくなった。

自分の決して多くない能力以上の負荷がかかると、あたまが小休止を求めているのに気が付く。「男のひとには、ぼーっとする時間が必要なのよ」という言葉とともに。

性別に関わらず、忙しい毎日を送る大人には、だれしも必ず必要な時間だろう。

 

こどもが生まれるということは、育児という新しいタスクが生まれるということだ。可愛い息子との時間は何にも代えがたいけれど、時間という意味ではやること純増・倍増である。全力で息子と向かい合うのだから、当然時間も体力も持っていかれる。

親といっても人間なので、何でもかんでも、出来るわけではない。「頑張る」とか「気合」とかでは乗り切れない線が、きっとある。

「ぼーっとする時間が確保できるか」というのは、分かりやすいボーダーだ。四六時中「あれやってない」「これ終わってない」では疲れ果ててしまうから。そして家事育児の「分担」に、解があるとは思っていない。主人にも、すでに余力などない。余力がないところに分担したとて、対応はできない。

 

製造ラインみたいに、自分自身に設備投資が打てればいいのにと思う。さしあたっての解決策が見当たらない私は、腕が3本に増えたり足が3本に増えたりして、ギラギラギラっと一気に仕事が片付いたりしないかしら?と夢想している。