私は0歳のころから保育園児であったので平日の昼は給食を食べていた。通っていた小学校でも、中学校でも給食が出たのだが、高校では給食がなかったので大抵「ぱんちゅう(パンを注文すること)」か「べんちゅう(お弁当を注文すること)」であった。
母は子供の栄養バランスになど興味のない人ではあったのだが、高3のある日、突如としてお弁当を持たせるようになった。毎日。彼女なりに、私の子供時代が終わることを寂しく思っていたのだろうか。真意のほどは分からない。
うすい水色のプラスチックでできた、四角いドラえもんのお弁当箱。おかずは決まってぶたぴー(豚肉とピーマンを炒めたもの)と玉子焼き。
当然のことであるが、お弁当のあった日には、お弁当箱の洗い物が発生する。帰宅する、汚れたお弁当箱を取り出す、シンクに出す、その他の洗い物があれば一緒に洗う。
はじめのうちは「お弁当つくってくれてうれしいな」と素直に喜んでいた私であったけれど、だんだんとこの一連の作業が億劫になってきてしまった。
そこである日母に「帰ってきてお弁当箱を洗うのが大変だから、お弁当はいらない」と伝えた。なんの悪気もなかったのだけれど、彼女は心底怒って私の怠惰を叱りつけ、1週間ほどまともに口もきいてもらえなかった。今思えば、母の思いやりを無碍にすることばだったのだろう。ちょっぴり申し訳なく思う気持ちも今ならある。
しかし、想像してみてほしい。高校3年生、受験勉強まっしぐらな時期である。試験の点数に一喜一憂し、志望校はどうしようか、冒険するべきか安全パイをとるべきか、人生をかけた大勝負に集中させてほしい切実な時だ。たかがお弁当箱、しかしそれを洗うときに厄介なのが、お弁当箱と一緒に洗わねばならない「その他の洗い物」である。
お弁当を作ったフライパンやらまな板やら、ひどいときには1日分の洗い物がたまっているシンクをみて、げんなりしてしまうのも仕方ないではないか。かといってお弁当箱だけ洗うなんてことをした日には、一層の怒りを買うのである。
今では私が、主人に毎日お弁当をつくっている。
主人は帰宅したら律義に「おいしかった」といってお弁当のはいったバッグと水筒2本(お茶とコーヒーが入っている)を私に差し出す。私は夕飯の途中であろうと、息子と遊んでいようと手を止めて受け取る。心の底で「シンクに持っていってくれてもいいよ、気が向いたら水筒のキャップを外してくれてもいいよ」と思うときもあるけれど、絶対に言わないと決めている。
私がお弁当をつくっているのは、彼を応援したいからだ。
「昼ごはん待ち遠しいな」
「今日も美味しかったな、頑張ろう」
そう思ってほしいからだ。
気持ちの意味でもプラスのエネルギーに変えてほしいからだ。
単純にカロリーを摂取するだけなら、別にコンビニのパンだっていいのだから。
けれど私は毎日彼にお弁当をもたせる。材料の買い物をして、おかずを作って、ごはんを詰めて、後片付けをして、持って帰ってきたお弁当箱を洗って、片付ける。その一連を負担してはじめて「お弁当をもたせてあげる」ことになると思うから。
やってほしい、手伝ってほしいことはそりゃあたくさんある。
口から出かかることもある。頼ることもたくさんある。
「ああ、手伝ってほしい。自分のことはじぶんでやってほしい・・」
そう思う日だってもちろんある。
だけどお弁当だけは、やっぱり私がやってあげたいのだと思いなおす。
彼から空のお弁当箱を受け取り、
明日の彼を応援するために、後片付けを引き受ける。