私たち夫婦は、献身と許容で成り立っていると思う。
ちなみに担当は私が「献身」、主人が「許容」である。
私はとにかく主人に何かしてあげるのが好きだ。そう、「してあげる」。世の中には目配り気配り心配りの上手な人がいて、相手の望むことを自然にやれてしまうのだろうけれど、私はそうではない。自然に尽くしているのではなく、「してあげて」いるのである。私は彼に尽くしている自覚があるし、主人にもそれを言葉で伝えている。
我が家で家事は申告制なので、「はい!トイレ掃除やりました!」だとか、「はい!ごはんの作り置き終わってます!」だとか、見て分かることであっても挙手して伝えている。たまに、挙手することを忘れてしまうこともある(日用品の詰め替え作業のように地味なことは)が、まあ大抵は伝える。もったいないから。感謝してほしいから。私を必要だと思ってほしいから。
恩着せがましくて嫌になる人もいるだろう。逆の立場だったらかなり嫌かもしれない。そんなこと言わずとも黙ってやってくれよ、トイレは自然にきれいになればいいんだよ。ドアを開けてうっすらミントの香りがすればいいんです。やれ便座がきれいだの、壁まできちんと拭き上げましただのという情報はいらないのだ。
彼はいつだって静かに(たまには盛大に)感謝を伝えてくれる。嫌な顔一つせず、私の挙手に頭を下げる。許容の人なのだ。私が尽くすことも、尽くしたことに感謝を求めることも、丸ごと許容してくれる。静かに、フラットに、揺らぐことなく、ただただありがとうと言ってくれる人だ。私は嬉しくなってしまう。いくらだって出来そうな気がする。
思えば私が2年間、単身赴任をしていたときの生活は怒涛だった。自分たちなりの家族のかたちをつくりあげるのに必死だった。毎週金曜の夜に、片道4時間弱かけて彼の待つ自宅に帰り、週末は1週間分の掃除・洗濯、つくりおき。平日は毎日朝から晩まで(ときには朝まで)働いて、泥のように眠ったら、また週末がやってくる。彼がそうしてほしいと言ったわけではない。ただただ必死だったのだ。家族であり続けるために、なにかしなければいけないと思っていた。
献身と許容なくしては乗り越えられなかったと思う。
私の献身は、私たちの関係を確認するのに必要なことだったからだ。
「私たちは家族だよね」
「ほとんど一緒に住んだことがなくても、家族だよね」
「書類だけの関係ではないよね」
「お互いに大切に思っているよね」
「結婚した意味は、ちゃんとあったでしょう?」
献身するのが私なら、揺らぐのも私だ。彼のために何かしていなければ、この関係が保てないのではないかと思っていた。せっかく手に入れた大切なものを失うのではないかと。
彼は許容し続けた。揺るがず言い続けた。
「もちろんだ。ありがとう、君のおかげだ」
そうして私たちは今、息子のおかげで一緒に暮らせるようになったけれど、習い性となった献身と許容のまほうは解けないままだ。
今日も私はごはんをつくる。掃除をする。洗濯をする。そして元気に挙手をする。
彼は静かにこたえる。
「ありがとう、君のおかげだ」